お寺の世界に関わり始めた当初から、寺院関係者に折あるごとにお話ししてきたことがあります。
それは、「寺院もホールディングス化する時代」という点です。
「ホールディングス化」というと企業のことのように思われがちですが、その意味合いを丁寧に申し上げますと、次のようになります。
- 寺院の存続・生き残りというテーマは、結局のところ「寺院運営・維持のコストをどう吸収するか」という問題
- 人口や経済が伸びている時代は世の中のパイが大きくなり続けているので、独立した各宗教法人が個別最適でそれぞれの発展を追い求めれば良かった。しかし、人口や経済が縮小していく時代は個別最適ではなく、全体最適を追い求めないといけない
- 全体最適を追い求める際、「一法人 = 一寺院 = 一住職」というように、本来は異なる概念が一対一対応で紐づいていることが大きな障壁になる。例えば、「一法人 = 五寺院 = 二住職」というように柔軟な運営体制を実現するという、つまり複数の寺院を一つの法人で束ねるホールディングス化が必要
- ホールディングス化することで、寺院運営に関わる様々なコストが一ヶ寺を超えて吸収できるようになり、寺院のコスト面での体力が増し、寺院存続に寄与する
以上のような趣旨となります。
このような趣旨を講演会などをはじめ様々な場面でお伝えしてきたところ、10年前はほとんど反応がありませんでしたが、最近は「数年前にホールディングス化という話を聞いた時はピンと来なかったが、最近はこの考えにとても共感します」というような前向きな共感を得られるようになってきました。特に宗派関係者や過疎地寺院の住職からの反応が増えています。
寺院を取り巻く環境が急激に変化する中、新型コロナウイルスという出来事も生起し、寺院側の時代認識が柔軟に変化してきた証左ではないかと考えます。
寺族だけでなく、檀信徒にも強い「統合」への忌避感
一方、ホールディングス化は「最大多数の寺院を残す」ということを目的とした場合に最良の解と考えますが、そもそも「寺院は消滅していって良い」という前提に立つなら、ホールディングス化は必要ないと考えます。
多くの寺院が「寺族運営」「寺族継承」され、寺院が寺族の資産的な色彩も帯びる中、寺族という血縁を超えてでもホールディングス化という「統合」を目指す可能性は高くないかもしれません。
また、全国を回っている中で感じることとして、寺族側の拒否感以上に、檀信徒側に統合を忌避する意識が強いとも感じています。
- 統合して自分の菩提寺が吸収されたら、対応・扱いの優先度が低くなる可能性があること
- 統合候補寺院が立地する地域と、菩提寺が立地する地域が、過去からの様々な経緯で歴史的に仲が良くないこと(だから統合したくない)
など、実際に檀信徒からの声を聞くことも少なくありませんでした。
これ以外にも統合後の宗教法人名をどうするのかという問題もあります。特に銀行界の統合のように組織名を羅列した法人名にするなど、日本的組織にありがちな玉虫色の結論になるような気もします。
仮に住職が統合に前向きであれば、統合に関するメリット・デメリットを冷静に整理した上で、統合が檀信徒にとって長期的に大きなメリットになるということを丁寧に伝えるとともに、特に感情面に慎重に配慮しながらブレずに進めていくリーダーシップが求められるでしょう。
ホールディングス化によって、寺院・僧侶が特色を出しやすくなる
ホールディングス化による法人統合のメリットは挙げれば色々とあります。大きな点としては、寺院や僧侶の特色を出しやすくなることが挙げられます。
今は、葬儀・法事の営みや、お墓の管理という観点では、大きく見ればどの寺院も金太郎飴のように似たようなことをしています。仏事の需要が伸びている時代は似たようなことをしていても良かったのですが、葬儀・法事の簡素化等が進む今後の時代に各寺院が似たようなことをしていては存続がおぼつかないので、それぞれの寺院が独自性を発揮していく必要があります。
例えば、統合することによって、全ての寺院で似たようなことをする必要はなくなるので、ある寺院は仏事に特化、ある寺院は宿坊、ある寺院は地域の寄り合い所(コミュニティスペース)等、それぞれの寺院が機能分化していくことも可能になります。そうなることで建物の修繕もその寺院の機能に合った形で行なわれるので、修繕費用の有効活用にもつながるはずです。
また、寺院だけでなく、僧侶にとってもメリットがあります。
今の寺院運営は、僧侶(住職)に幅広い才能を強いています。お経も上手で、作法も見事で、お話しは巧みで、傾聴も素晴らしく、経営管理者としの寺業運営にも長けている。こんなスーパーマンのような僧侶(住職)が全国にどれほどいらっしゃるでしょうか。
お経が上手くないのに(音痴)、仏事を頑張らないといけない。(いつも有難く感じなければならない檀信徒にとっても苦痛)
コミュニケーションが苦手なのに、丁寧に檀信徒対応をしないといけない。
法話が下手なのに、もっともらしい話をしなければならない。
経営管理が苦手なのに、様々な管理業務をやらなければならない。
生きていく上で、自分の苦手に向き合っていくことも必要な時はあるでしょう。
しかし、苦手の克服にいくら取り組んでも、その分野で卓越していくことは困難です。それよりも、自らの長所・強み・好きなことに注力して、それをさらに伸ばし、縁ある人々に価値として提供していくことのほうがよほど素晴らしいことだと考えます。苦手・弱みの領域は誰かに任せ、自分の長所・強み・好きなことに集中していくことが、自分らしい人生を歩むことにつながります。
お経・作法に長けた僧侶は、仏事を一生懸命営む。
法話が上手な僧侶は、さらに多くの人に気づきを届けられるよう話を磨く。
傾聴に長けた僧侶は、檀信徒や地域の方のお話しを聞く。
経営管理や寺業に長けた僧侶は、素晴らしい寺院運営を実現する。
というように、僧侶それぞれの個性・独自性が活かされて結集し、チームとして寺院(法人)が運営されていくことが理想的ではないでしょうか。
寺院統合のメリットが増していく時代は、僧侶にとっても活躍の場が広がる時代でもあります。
思いと責任感のある檀信徒が代表役員を務めても良い
そして、寺院には多様な経験・才能・思いを持った檀信徒という存在があります。
ホールディングス化が進む時代は特に経営管理面において、檀信徒も運営に参画していくべきではないでしょうか。経営者の経験がある檀信徒も多数いらっしゃいますし、人やお金のマネジメントは僧侶よりも長けている方が多いでしょう。
宗教法人の運営管理者が僧侶でなければならない定義は法律にはありません。
例えば公益法人の一つでもある私立大学の例を取れば、教授職を経験されたことのない職員が法人を代表する理事長を務め、教育・研究のトップである学長と二人三脚で大学を運営するケースも珍しくありません。
お寺においても、宗教的象徴である住職と、思い・責任感のある檀信徒が担われる宗教法人の代表役員が、相互に協力して手を携えながら運営されていくという未来もあり得るのではないでしょうか。そのような柔軟な体制が構築されていくことで、寺院存続の問題の全てとは言いませんが、かなりの部分は解決に向かうと考えます。
お寺の未来は、全国各地域の土着性と密接につながりを持ってきた寺院を「最大多数」残すことに貢献したいという思いで日々精進しています。
地域の風景であり精神的拠点でもあった寺院が消滅していくことによって、社会が失っていく損失(特に非金銭面)は計り知れないものがあります。その損失を食い止めるだけではなく、前向きな形に寺院のあり方を整えて次代に継承していく。そのための最良の解の一つが、コスト体力、柔軟性、機能分化による独自性発揮を伴ったホールディングス化と言えるのではないでしょうか。